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epi.03
びいどろ満月が揺れるころ −ウタ編
誰にだってふたつみっつ、秘密があるものだ。 足下に咲いていた花の奥様が、やれ最近は花弁の艶がよくないだとか、蜜が甘くなる水があるだとか、とりとめのない世間話をはじめても、彼はやって来なかった。 これで何度目か、見上げた空には透明なびいどろ満月。月自身は輪郭だけを残し、他はカメレオンのように空へすっと溶けこんでいる。そのせいか否か、空はまるで魔法にかかったかのような、美しいラベンダー色をしていた。 昨夜、彼と喧嘩した。キッカケは相当に些細な事で、子供の言い合いのようだった。 「いじっぱりなんだからさ」 誰に宛てたわけでもない独り言が空気に溶けてかえっていく。 今日は一年で一度だけ、硝子のような月が空に張り付く、びいどろ満月の日。彼と一緒に、この不思議な紫色の空を散歩する日。になるはずだった。まあ、実際はわたしひとり待ちぼうけの日になったけれど。 肩の上で切りそろえた金色の髪をひる返し、来た道を引き返そうとしたその瞬間。道を挟んで斜向かいにある、静寂の湖が、風もないのにゆうるりと揺らいだ気がした。 * 少し考えたのち、恐るおそる、湖面を覗きこんでみる。 空の色を合わせ鏡のように映した湖はやはり、小刻みだが規則的に震えていた。 びいどろ満月はその名の通り、色を持たない透明な月だ。それ故に、湖に影だけが落ちると、そこだけ何だかぽっかり開いた穴のように見えた。 「まさかとは思うけどさ」 湖にあわせ震える、影の月に、 「月もわたしたちのお散歩が無くなってしまって、泣いてるの」 冗談半分で投げかけてみる。 その質問が鍵になったのか。それともそれが月なりの返事だったのか。湖面に映ったその穴から突然、ごおおおぉぉぉ.....という地響きのような大きな音がすると、そのまま一時も躊躇することなく、わたしをまるっと吸い込んだ。 * 「やあ面妖な格好のお嬢さん」 その声に目を覚ますと、頭上で石のライオンがわたしに話しかけた。 「失礼、初対面で面妖、は表現としてよろしくない。ユニークな格好のお嬢さん、とさせてくれたまえ」 わたしが口を開くより先に慌てて訂正する。体を起こすと、背後に見たこともない大きさの煌びやかな建物が、ぽっかり口を開けていた。 左を見れば、今話している石のライオンと同じものが鎮座していた。 「わたし、先ほど満月の穴に飲み込まれたの。あなたも?」 と尋ねてみると 「僕は100年ほど前に、隣にいる兄弟と共にここにきた」 どうやってここに来たのかも忘れてしまったし、帰り道もわからないけれどね、と静かに付け加えた。 「よくお聞き、お嬢さん」 「お嬢さんじゃない。ウタです」 「失礼。それじゃあ初めまして、ウタ。僕は右のライオンでお願いするよ。なんたって、いつの間にか名前も忘れてしまったんだからね」 とぎこちなく(実際には石が音を立てて少しこぼれ落ちただけだけれど)笑った。 「いいかい、ここは ”ニホンバシ” というんだ」 ライオンが続ける。 「あらゆる時間と道がはじまり、生まれ、交差する場所だよ。時折君のように、何かのキッカケで、どこかの道と道、世界と世界が交差したりして、この場所に繋がるんだ。僕たちも今のウタと同じ、その中のひとりだった」 二匹だろ、とすかさず左のライオンからヤジが飛ぶ。 ニホンバシ、と頭の中で繰り返してみる。以前どこかで、聞いたことがあるような名前だった。 「来た時と同じように、帰りも気まぐれに呼び戻される」 ライオンが続ける。 「その時は素直に従うのさ。どんなに帰りたくなくてもね。でなければ僕らのように、段々とこの街の一部になってしまうよ」 「つまり、右のライオンはここから帰りたくなかったってこと?」 驚いて尋ねると、左のライオンから声がした。 「この街は最高に刺激的。本当に帰りたければ注意するんだ。あまり深入りしないように」 右のライオンも、ぶんぶんと(実際には石が少しだけ音を立てただけだったけれど)大きく頷いた。 * ライオンたちに別れを告げ、街を少し歩いてすぐに、ここは自分が暮らしていた世界ではないことがすぐに分かった。 少し古びた外装の店とぴかぴかの新しい建物。 見たこともない格好をした人々。 月のない空。と、代わりに輝く太陽。 聞いたことのない言葉。だけれど理解できるのは摩訶不思議。 途中、花を見かけたので挨拶をしてみたが、機嫌が悪かったのか返事がかえってこなかった。途中橋を渡ると、石のライオンによく似た石像を見つけた。それに何故か、わたしの祖先の姿そっくりの石像もずらり並んでいることに驚いた。 しばらく歩くと、とある場所に到着した。 この場所を「絶対気に入るから」と勧めたのは左のライオンで 「帰れなくなるからやめなさい」と必死に止めたのが右のライオンだ。 ”GROWND -nihonbashi-” 文字こそ読めないけれど、多分ここだ。だって、わたしの直感は昔からよく当たる。 * 引き戸を開けてみると、中は何かの食べ物屋さんのような雰囲気だった。 なぜか人々は横一列に並んで着席していて、それぞれ何か皿の上の狐色をした、四角いものを嬉しそうに頬張っている。 「いらっしゃい」 店の奥にいた女亭主がこちらを振り返ると、おや、まあ。とだけ少し驚いたあとに、懐かしそうに目を細めた。 「ねえ、こんにちは。わたしあっちの方にいる石のライオンにお勧めされてここに来たんだけど」 「その四角いのが、花の蜜より美味しい ”ワガシ”?なの」 わたしの声に、客たちも次々振り返った。 「これはホットサンドですよ。和菓子はこの三階」 常連客らしいひとりの客がもぐもぐと口を動かしながら、店の奥の方にある階段を指差す。 「ホットサンド、は、蜜より甘いの?」 女亭主はやんわりとした笑顔で 「甘くはないですが、これも大変においしいものですよ」 「今度また、ここにもゆっくりいらっしゃい。あなたの口にも間違いなくあうはずだ」 と言った。 建物は古いようなあたらしいような、それらを混ぜたような不思議な身なりをしていた。楽しげにギイギイと鳴く階段を踏みつけ、登っていく。 「初めまして。わたしウタ。“ワガシ”はここにある?」 三階へ到着すると一階と同じように人々は横に並び、だけれど今度はみんな宝石のようなものを皿にのせていて、慎重に、慎重にそれを小さな木のようなもので削り、口に運んでいる。 男亭主はちらりわたしを見ると、やはり少し驚いた顔をして、中へどうぞ、と招き入れてくれた。 「もしかしてこの宝石みたいなのが "ワガシ" なのね? まるで夜空みたい」 わたしが隣の客の皿を覗き込みながらうっとり呟くと、男亭主はそれは可憐な手つきで、わたしの前に同じ、ラベンダー色の和菓子を置いてくれた。 周りと同じように、小さな木を入れおそるおそる、口へと運んでみる。こんな、宝石のようなものを食べるのは初めてだ。 歯が欠けてしまったらどうしよう。 全ての神経を舌に集中させ、そして五感全ての神経が花ひらいた。 それは、花の蜜とも違う上品な甘みを、ふうわりと届けた。 と思った矢先、さらりと溶けて舌の上から消えた。そして今度は頭の奥がじんわりとあたたかくなった。 わたしはその一連の流れを体全身で受け止め、いつか彼とふたりで見た、あの春の雪解けのようだ、と、何故だか泣きたくなった。 こんなに優しくてほんわりした気持ちを連れてきてくれる食べ物が、世の中にあったなんて。 「これの原料は一体何?淡雪?それとも雲?それとも…」 わたしが興奮して亭主を見ると、もう1皿が目の前にコトリと置かれた。そこにのっているのは、間違いなく、あの、びいどろ満月だった。 「何故あなたがびいどろ満月を知ってるの?」まさか帰れなくなっちゃったの?と付け足すと、無口そうな亭主は困ったように首をかしげた。 「君みたいな子がここに来たら、これを出すのがうちの伝統なんだ。かんたんなゆめ、というお菓子だよ」とだけ笑い、それ以上は何も教えてくれなかった。 「カンタンナユメ…」 それは透明なのにほんのり光っているようで、指で触るとふるふると震えた。はかなく夢のようだ。だけれど確かにこれは、わたしの特別なびいどろ満月だった。 その途端、自分が震える満月の穴に吸い込まれ、ここに来たことを思い出した。もしかしたら彼…タカは、入れ違いになってしまって、今頃わたしをあの場所で、待っているんじゃないか。早く帰ってこれを食べさせてあげたいと思った。 「ねえ。このカンタンナユメを連れて帰っていい?一緒に食べたい人がいるの」 「もちろん」 亭主は薄くて柔らかい布にそっと和菓子を包み、持たせてくれた。 「ありがとう」 階段を駆け下り引き戸を締めるとき、女亭主が小さな声で、けれども確かに 「さよなら麒麟のお嬢さん」 と言ったのが聴こえた。 今夜、一緒に特別な空を散歩することは叶わなかったけれど。 半分ずつ、この、まるで夢のように美味しい、びいどろ満月を分け合って、仲直りをしよう。 今度はここに彼も連れてこよう。きっとびっくりするだろう。 もしかしたら、帰りたくなくなってしまうかもしれない。でもそれでも、良いかもな。とにかくそれまで、これはわたしだけの秘密だ。そう思うとなんだか嬉しくて、心がむずむずした。 お店をあとにして、浮かれ足で街を歩いていたそのとき、遠くから、ごおおおぉぉぉ.....という地響きのような大きな音が聴こえた。
びいどろ満月が揺れるころ −ウタ編 epi.03
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