GROWND

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暁子  陳暁 夏代

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epi.06

暁子 陳暁 夏代

あの日は土砂降りの雨だった。 二十五歳になった日、大雪警報が出ていたあの日の夜、街に人は少なく、私は肩を少し濡らしながらここにきた。 「あの…今日やってますか?」 「はい、いらっしゃい!」 「一人です」 「カウンター席どうぞ」 大雨のせいか営業中の店が少ないからか、意外と人がいる。 席について間も無く男性が入ってきた。 「おお小林さんいらっしゃい! 凄い雨の中、わざわざすみませんね」 「雨なんて大したことないですよ お隣いいですか?」 「あ、はい」 見知らぬ人と目を合わせることにあまり慣れていない私は、思わず目をそらした。大将が言葉をかけるなんて、常連だろうか。こういう空気は、得意ではない。 ここは日本橋の老舗寿司屋だ。もちろん寿司屋に来ることも、得意ではない。溜めたお金を握りしめて寿司屋に来た私は、寿司を食べに来たわけでない。 この寿司屋の四階に部屋がある。ほとんど隠し部屋だったらしく、店の従業員と親しんだ記憶が私にはない。いつも母だけが裏口からこそこそと出入りしていた。母はここに住み込みで働いていたらしい。 「お客さん、ご注文はお決まりですか?」 「あ、並セット一つ、あと…あったかいお茶ください」 そして母はここで私を産んだ。私の生後間も無く亡くなったらしい。母の顔はあまり覚えていない。母の後にここに住み込みで働くことになったおばさんが母の死後数年ほど私を育て、またおばさんも亡くなり私は孤児院に引き取られた。孤児院に引き取られた際に着ていた服に暁子という刺繍があった。おそらく母の名だろう。それ以来私は母の名前を名乗っている。自分の名は知らない。それ以上の母のエピソードも遺物もない。 この店のことはうっすらとしか覚えていなかった。日本橋のどこかにある背の低いビル。母の顔もおばさんの顔もあまり覚えていないが、この道の風景だけはなぜか覚えていた。二十歳を過ぎた頃、この辺りを歩いている時ふと上を見上げた。いつも窓の中から外を見ていたからか、道の景色にはどこか既視感がある。 見上げると、そこには窓があった。 二十五歳になった今日、溜めたお金を握りしめてここに来た。ずっと探していたけれど、最近やっと見つかった。窓を見つけたあの日から何度か店の前まで来ては立ち尽くした。寿司屋の格式か、心の迷いか。そんな中ビルにある日「建替工事」の張り紙が貼り出された。 当時ここを出た時、私は五歳だ。ここにはもう私を知る人はいないだろう。だから今日は寿司を食べに来たわけでも、旧懐の情を抱きに来たわけでもない。 これはおそらく私の記憶の中に残る光景だ。今でもたまに夢で見る。私はいつも四階の窓の隙間から外を覗いていた。日の出前に犬の散歩をするおじさん、昼食をとりに人が行き交い、夜の賑わいの後に見かける喧嘩や馴れ合いを、私は小窓から一人そっと覗いていた。ほとんどの人間模様には興味がなかったが、たまに通り過ぎる自分と同い年くらいの子供には興味を示していた。羨ましさなんてない、ただの興味だった。ふと路上の子供と目が合いそうになるとすかさずしゃがんだ。他にもあなたのようにずっと家にいる子供はたくさんいるのよ、とおばさんに言い聞かされていた。その言葉を信じてはいなかった。私の記憶はそこまでだ。 「お手洗いありますか?」 「二階の階段上がったところです」 「ありがとうございます」 二階を通り過ぎた私は、そのまま階段を四階まで忍足で駆け上がった。まるで毎日踏んでいる道の如く、軽い足踏みだったことは自分でも不思議だ。まるで今でも此処に住んでいるかのような顔で、階段を上がった。 「お母さん、ただいま」 部屋は物置になっていた。薄暗く、電気をつけるスイッチも見つからない。でも確かに覚えていた。壁の色も、布団を敷いていた隅も、まるで昨日の記憶のように想像できた。 叔母さんに死ぬ直前に聞いたことだが、この部屋に母の残した荷物が床下の棚にしまってあるそうだ。それを今日、探しに来た。まだあるか定かではないが、探しに来なかったことを後悔したくなかった。見つからなくてもよかった。最後に探しに来たという事実で終わりにしたかった。なぜか私はとても冷静だった。 物をかき分け、床下の引き戸を開ける。 「あっ…た…」 思わず声が溢れた。 錆び付いた缶、そっと開け中身を確認した。数枚の紙切れだった。ここでじっくり見るのは忍びなかった。缶を服に隠し、すぐさま下に降りた。 トイレに長くいたと思われているだろう、神妙な顔をしてみた。 「はい、並セット、今日卵サービスね」 「ありがとうございます」 「お一人ですか?」 先ほど私の後に入ってきた男性に話しかけられた。 年齢が近いのだろか、二十代後半に見える。 「よく来られるんですか?」 「あ…いえ、初めてです。」 「雨の中わざわざありがとうございます」 「?」 「ここ、父のなんですよ」 「父? お寿司屋の息子さんですか?」 「ビルのオーナーの」 「あ、そうなんですね」 「それでよく来るんです。ね、大将」 「ははは、タカシくんね、大きくなって、最初にあった頃なんて三歳くらいか、ヤンチャだったな〜」 「お姉さんこの辺で働いてるんですか?」 「あ、いえ…たまたま…」 「あ、たまたま? 寿司好きなんですね一人で来るなんて」 「まあ…」 服に隠した母の缶をギュッとしめた。 「なんとお呼びしたらいいですか?」 「暁子です」 「暁子さん、私もよく一人でここ来るんですよ、なんか居心地良くて」 「ははは、そりゃ父親と子供の頃からしょっちゅう来てるからなあ」と会話に入る大将。 「この店ランチも美味しいんですよ、ランチタイムしかない特上にぎりがあって、大体売り切れちゃうんですけどね、ランチもおすすめですよ」 「ランチ…実はそんなに外食しないんですよ、今日は本当お寿司が食べたくなって」 「そうなんですね、僕もです。基本家にいるんですけど、たまに日本橋に来るといいですよね、なんか賑わってて。働き終えた人たちが上司の嫌味いったり」 「そんな日常もいいですね」 「そうですか?」 「私、昼間は嫌いなんです」 「どうして?」 「皆違うことをしてるじゃないですか、不安になるんです。ああ、起きてる間にも人生に差がついていくのねって。だから夜は大好き。みんな寝てるでしょ、平等な時間だなって」 「不思議な感性ですね暁子さん」 「よく言われます」 そんななんでもない話をタカシとしばらくし、私は缶を落とさないよう服の中で抱きしめ、店を後にした。 それから三十五年の月日がたった。 私は六十歳になり、二人の子を産み、孫もできた。 その日は久しぶりに長男家族と、最近結婚をした長女、そして旦那の家族四人でお昼を食べに日本橋を歩いていた。 ふと通り過ぎたあの角のビル、見慣れた看板は変わり若者が集まっていた。 「グラウンド日本橋…?」 「あれ…ここ昔お母さんが好きなお寿司屋さんじゃなかったっけ?」 「そうね、またお店が変わったのかしら、入ってみる?」 私はふと四階の窓を見上げた。誰とも目が合うことのない、ただの窓だった。 「なんだか賑わってるね、せっかくだしお昼はお寿司でも食べに行こうよ」 「そうね、朝日もお昼お寿司でいいかしら」 「いいよ」 少し先に、幼い少女がいた。 少女はふと振り向きこちらに笑顔を向けた。 空は久しぶりの晴れ間だった。

暁子 epi.06

陳暁 夏代

暁子

DIGDOG Ilc. CEO, Creative Director。日本と中国の背景を持ち、二〇一一年より二年間北京・上海・シンガポールにてファッション×芸能事業を手掛ける。二〇一三年東京に拠点を置き、日中双方における企業の課題解決、進出支援、及び様々な企画立案を手がけるDIGDOG llc.を創業。ブランディングや若年層マーケティングを多く手がける。両国のコンテンツ産業の橋渡しに力を入れ近年では個人のアートプロジェクトも手掛けている。NHK「新春テレビ漫談」、CCTV「春节联欢晚会二〇二〇」日本生中継などメディアにも数多く出演。 小説は今回が処女作となる。

※物語のつづきは、十二月中旬以降、文庫本にてお愉しみいただけます。「GROWND -nihonbashi-」のオープン後に、1階のホットサンド専門店「mm ミリ」店内にて展示(予定)、また、クラウドファンディングのリターンとしてお届けいたします。

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GRONWND - nihonbashi- では クラウドファンディングを12月28日まで実施中。 一緒に場を作り上げませんか? リターンには七人が描く小説の「後編」小説セットとドリンクやホットサンドのセットを購入することができます。 https://arutokoroni.grownd.jp/

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