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鮨屋の娘 - 前編 - 赤澤 える

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epi.05

鮨屋の娘 前編 赤澤 える

 生魚が食べられない。どうしても口に入れることができない。新鮮だろうが高級だろうが関係ない。あの冷たい生臭さを喜べない。鮨屋の孫に生まれたというのに、こんな不幸があるだろうか。――  私の家は小さな鮨屋である。古びた木造家屋の一階が店だ。共に暮らす祖父母は、この小さな店を毎日開いた。休まないことに使命を感じているようだが、それと同じくらい、幼い私を孤独にしないことも背負っているようだった。生真面目で慎ましいこの老夫婦を中心に、私の質素な世界はあった。  どうして私が祖父母と暮らしているのか。そして両親はどうしているのか。それは未だによくわかっていない。でも知っていることが少しだけある。それは幼い頃の記憶に残る、ある日の夕食時でのことだ。 「スミ、無理しなくて良いからね」  皿に残る生魚を見つめる私に祖母が言う。せめて火を通してくれたら食べられそうなのに、とぼんやりする。他の鮨屋にはそういうメニューもあるらしい。煮穴子なんてものをテレビで見たことがある。どうしてうちには無いのだろう、いつもそう思うがなんとなく口に出せず、冷たく皿に横たわる海の幸を見つめている。  夜の営業のために仕込みをする祖父が、有り合わせで作ってくれる小さな夕飯。それを店のカウンターで食べるのが日課だった。三人で食卓を囲むこともごく稀にあるが、外食はほとんどしたことが無い。私は、我が家が他の家庭とは違うことに早いうちから気付いていた。しかし特に気にしてはいなかった。それはきっと祖父母がいつも私にやさしいからだ。この二人は絶対に私を叱りつけたりしなかった。   「スーの好き嫌いは誰に似たのかねぇ」  祖父がため息交じりに独り言つ。 「小さい時からダメなんて完全に遺伝だねぇ」  困ったように祖母に笑いかけながら、せっせと手を動かす。 「いいじゃない。ほら、魚卵は食べられるもの」  祖母がイクラを分けてくれた。視線を移すと、その玉に映る間抜けな自分と目が合った。 「大の魚嫌いに、鮨屋の一人娘が貰われていくなんて思わなんだ」  暖簾の向こうに続く調理場に向かう祖父が、小さな声でぼそりとこぼした。口の中でイクラが弾ける。残した生魚は祖母が食べてくれた。  〝大の魚嫌い〟。確証は無いが、それはきっと私の父親のことだと思う。もしそうだとすれば、私が父親について知っていることは以上だ。こちらからは何も聞いていない。まな板に向かいながら苦笑うその皺々の横顔に、深掘りしてはいけないことなのだと幼心に理解した。  このほか、祖父母や両親について考える時、つい思い出してしまう出来事がある。忘れもしない、高校生の頃のことだ。    その日、私は帰宅がすっかり遅くなってしまった。  閉店時刻を過ぎた店には灯りがついていた。まだ客がいるのだろう。私は足音を立てないようにそっと家に近づいた。高齢の保護者に心配をかけまいとする気持ちに嘘は無い。が、それくらいでは友人とのおしゃべりを止める力にはならない。我が家には特に門限があるわけではないけれど、これが常識はずれだという自覚はある。いくらやさしい祖父母でも、この時間の帰宅には流石に不安を抱くだろう。――なるべく顔を合わせずに二階の住居に上がりたい。  店の裏口をこっそりと開ける。すぐそこの厨房には誰もいない。祖父母はどちらも短い暖簾の向こう、客席側にいるようだ。床をきしませないよう慎重に足を滑らせる。短い廊下の端、住居へと続く階段にさしかかり、一段目に足をかける。その時だった。 「お〜い! スミちゃ〜ん」  呂律の回らない口で私を呼ぶ声がする。ぎくりとして目をやると、常連の年寄りがこちらを見ている。顔を酒で赤黒くし、カウンター端のいつもの席で壁にもたれながら私に手を振る。せっかくの忍び足もこれでは意味が無い。 「あ、タチバナさん! こんばんは〜」  私はすぐに切り替え、最初からそうするつもりだったかのように客席に寄る。満面の笑みで愛想を振りまく様子に、お客は嬉しそうに顔をゆるめ、お猪口を額のあたりまで掲げて乾杯のような仕草をした。  この人はいつもこうだ。熱燗をちびちびやって、閉店時刻を過ぎても出ていく気配が無い。こうして祖父母が店を片付けつつ、その酔っ払いの気が済むまで相手をしてやっている光景、これが週末のお決まりだった。 「大きくなったよねぇ、スミちゃん」  その姿を目にした一番古い記憶は四才の頃だったと思う。あれから十三年も経つが、この客人はあの時から今まで、ずっと酔っ払っている。週末の夜といえば、友だちの家では一家団欒が当たり前だと聞く。私の家はどうだろう。この酔客に奪われてばかりのように思う。 「こんな時間までどこに行ってたんだい、スミちゃんよぉ」  馴れ馴れしい呼称で私を嬲りながら、爪先から髪の生え際まで舐めるように鑑賞している。その目は真っ赤に充血し、焦点が定まらない。  人を酒に浸したようなこの男は、私の姿を見つけるといつも隣に座ることを要求する。この度もお酌を求められるだろうと察しこちらから徐々に近づく。暖簾をくぐり客席側に出ると、案の定この男しかいないようだった。当たり前だ。閉店時間はとっくに過ぎている。 「友達とおしゃべりしてたらこんな時間になっちゃって…。気をつけないとダメですよねっ! そんなことより、今日も飲み過ぎなんじゃないですか〜」  愛想良くかわそうとする私に反応を示さず、奴はなお私をじっと見つめた。その視点は定まらず、私の身体の表面をヌメヌメと動く。黄色く濁った目に私は思わず硬直する。生臭いのは魚ではなくこのジジイかもしれない。 「こんな時間までほっつき歩いて、どこ行ってたんだい、ええ?」 「まぁまぁ、タチさん。勘弁したってください」 「飲み過ぎちゃったのかしら。お冷や入れましょうかね」  明るく振る舞う祖母が、突っ立つ私をすり抜け奥へと潜る。祖父の作り笑顔を一瞥した酔漢は、かすかに鼻で笑った直後、いきなり声を張り上げた。 「どうしようもねぇよなぁ! これだから、孤児は」  一瞬にして空気が張り詰める。  視界の隅で祖父の表情が冷えていくのを感じる。少しも動くことができない。私はただ友人とのおしゃべりに花が咲いてしまっただけなのに、人を孤児呼ばわりするなんて…… 酷い。  酩酊状態の老人は、その場の妙な空気に気付かぬ様子で、今度は鼻歌を歌い始めた。酒に焼けた高音は擦り切れ、何音かに一度、カバのようなあくびが混じる。これだけの距離があっても酒臭い。 「スミちゃんのス〜は、捨て子のス〜」  不意に歌詞がついた。捨て子、今確かにそう言った。 「スミちゃんのミ〜は、みなしごのミ〜」  思わず立ち尽くす。祖父が私に〝家に入れ〟と目配せをした。 「スミちゃんのス〜は、捨て子のス〜」  捨て子。みなしご。私のこと。重力のままに瞼を下ろし、口元に怪しげな笑みを浮かべ、頭頂で円を描くように揺れる薄汚い老爺。かすれたフレーズが続けて宙を舞う。なんなの、このクソジジイ。 「スミちゃんのミ〜は、みなしごのミ〜」  私は無言で暖簾をくぐり店の裏へと下がった。何か言いたげにこちらを見る祖母を視界に入れないようにして、そそくさと二階へ向かう。息を詰まらせたまま、音を立てずに足早にのぼる。一段ごとに床と心臓が一緒にきしむ。私は何故こんなことを言われているのだろう。怒りとも悲しみとも違う感情に押されて、深い洞穴に堕ちていく。こんなふうに言われるのは初めてだ。周りと自分の環境が違うことくらい、私にだってもうわかる。捨て子、みなしご、そんなの、わかってる。    途中、汚らしい酔いどれの歌が途切れた。無意識に私も動きを止める。息を殺し、耳をすます。 「大将、そんなに怒った顔するなよぉ。俺は全部知ってるんだから」 「ちょっと、もう勘弁してください、タチさん」  煽るようにまくしたてる男に、祖父は弱々しく返す。私はその場にへたりこみ、階下の灯りを見つめたまま、次の言葉を待つ。 「相手に捨てられた時も、産んだばっかりのスミちゃん置いて出てった時も、俺は知ってんだ。あんたの娘、今頃どこにいるんだかねぇ! あんたらもひでぇよ、娘の一大事に向き合わずによぉ、毎日店開けることにしか頭が回ってねぇの。ひでぇ親父だよなぁ」 「わかってます、わかってますから、勘弁してください」 「なーにが勘弁してくださいだよ。あんたらが困らねぇようにっつって、ここの売り上げになってやったの俺だろ? なぁ、そうだよなぁ」 「タチさん、もう今日のところは、すみません」 「このままじゃよぉ、あんたらの娘とスミちゃんが同じ末路だっつってんだ、俺は。誰からも望まれずにデキた子じゃねぇか。結局邪魔になってあんたらジジババのとこに捨ててってよぉ。押し付けられたあんたらも気の毒だけどさぁ」 「……タチさん」 「なぁ大将。どうせこの子もまた、その日暮らしの不良娘に転落だぁ、どうすんだよぉ」 「……」 「またそんな女に育ててんのは大将、あんたなんだよ! わかってんのかぁ、俺は心配してんだよぉ」  吐き気がする。思わず耳を塞ぎ、頭をぐしゃぐしゃに抱えた。奴の勢いは止まらず、指の隙間から汚い大声がなだれ込む。全身から何かが迫り上がり、ぎゅっと目を瞑る。暑くないのに汗が滲む。私は、瞼を開くと同時に残りの数段を駆け上った。古い扉を力いっぱい閉め、そのまま布団に潜り込む。枕に顔を押し付け、裂く勢いでシーツを掴み、タオルケットに何度も噛みつく。止められない。血管が切れそうだ。  なんなんだ。あんなのを止められないなんて、じいちゃんもばあちゃんも、なんなんだよ。私は親に捨てられたの? 邪魔なの、なんなの、どうしたの。母親は、父親は、一体どうしたの。何があって今こうなってるの。  じりじりと、痛いくらいに頭を擦り付け声を殺す。本当は大声で泣きたい。泣き叫びたい。狂ったように全てを壊してしまいたい。でもできない。あのクソジジイに屈したくない。そんなふうに思われなくない。気付かれたくない。奴にも、誰にも、絶対に。  声にならない叫びは小さな海をつくり、マスカラもチークも全てが藻屑となっていく。このまま身体中の水分が抜けきってしまえば良い。どうせ知らない人の血だ。深い深い真っ暗な水の底に落ちて、小さなイクラにでもなりたい。気付いた時には親と離れ、一粒だけじゃ価値にならず、すぐに弾けていなくなる、小さくか弱い水ぶくれ。ぷかぷか浮かんで海原を彷徨う夜があっても、誰にも気付かれない。大きな丸いお月様とふたりきり、いつまでもゆらり揺れていたい。  ふと、部屋をノックするような音がした。気遣いを感じる小さな二音。しかし今宵の私は聞こえていないふりをする。煮えくりかえる火山の頂点からパラシュートを開き、静かな海へとひとり沈んでいく、そんな夜だ。  そのまま海に身体を預けてみる。ゆったり、ゆらゆら、波のリズムに揺れている。ただただ自然に身を任せて、意識が水平線を越えるまで、私はいつまでもそのまま漂った。  翌朝、私は床に転がっていた。干からびた頰、重たい頭、思うように動かぬ四肢。砂浜に打ち上げられた小魚のように力なく地面に横たわる。昨夜のことはどこからが夢でどこからが現実なのだろう。広い海なんてどこにも無い。この古い木造一戸建てには潮風ひとつ届かない。イクラになれなかった私は、未だ立派な人間の形をしている。  時計は朝の五時を示し、こうしている間にも窓の外は徐々に明るさを取り戻していく。ひなびた四畳半の天井に向かって両手を伸ばしてみると、腕の骨がコキリと鳴った。色のはげた情けない指先が五つずつ宙に浮かぶ。昨日は丸ごと全てが夢だったのかもしれない。私はひとつ溜息をついた。  ふと、充電が切れそうなことに気が付き上体を起こす。鏡に映る自分の腫れぼったい顔にがっかりする。落ちた化粧があちこちにへばりついているのを寝ぼけ眼でじっと眺める。私はいつ眠りに落ちたのだろう。ぼんやり考えていると、耳の奥でじわじわと、あのメロディーが流れ出した。  捨て子のス。みなしごのミ。    しっかりと耳にこびりついている。昨夜の悪夢のような時間はどうやら夢ではなさそうだ。私はむくんだ瞼をこすり、晩の現実をゆっくり振り返る。  あの呑んだくれは帰ったのか。祖父と祖母は無事なのか。  咄嗟に部屋を出て、そっと祖父母の寝室を覗いた。くたびれた顔をして祖母が寝息を立てている。祖父はそこにはいないようだった。嫌な予感がして階下に耳をすます。しばらく低い姿勢でいると、一階で水を流すような音が聞こえた。良かった。祖父は厨房にいるようだ。  音を立てないように一階に下りる。祖父は何か調理をしているようだ。仕込みにしては早すぎるが、きちんと料理人の格好をしている。恐らく客席には誰もいない。あの男の気配もない。 「じいちゃん」 小さく驚いて振り返る祖父。私の姿を見ると表情がやわらいだ。いつもどおりのやさしい笑顔だ。随分早起きだねぇ、とまな板に向かいながら呟いた。 「何を作ってるの」 近づくと、醤油と砂糖の甘い香りがふわっと私を包んだ。わぁ、と思わず深呼吸をする。何をこしらえているかすぐにわかった。 「おいなりさんだ!」 「そうだよ。スー、好きだろう」  祖父が作る稲荷寿司は格別だ。身内だから言うのではない。この世で一番の稲荷寿司は絶対にこれなのだ。他で満足したことなどたったの一度も無い。これに勝てるものなどありっこないのだ。これならいくらでも食べられる。丁寧に炊き上げられた優しいお揚げが、こだわりの酢飯をふっくらと包み、頬張ればたちまち甘辛さがじゅわりと広がる。最高のご馳走だ。  我が家では、イベント事があるとこの香りがする。小さな頃から、遠足でも運動会でも弁当には必ず入れてくれていた。それを一口食べるといつだって幸せな気持ちになれる。  この絶品に文句など少しも無い。が、ただ一つ、この優しい茶色を見ると思い出してしまう事がある。  それは弁当箱のことだ。私が渡される弁当はいつも、寿司折のあの容器に入っていた。周りはもちろん可愛らしい今時のランチボックスだ。それだけでも恥ずかしいのに、中は煮物など渋くて茶色いものばかり。店で出す料理の詰め合わせだった。クラスメートのカラフルな弁当が羨ましくて、みんなに隠れて食べたり、あまりの恥ずかしさに堪えきれずひとり涙したこともある。  こうして振り返ると良いものを食べさせてもらっていたのだろうけど、当時は冷凍食品が入っている友人たちのそれが心から羨ましかった。ないものねだりである。この優しい茶色に触れると、そのことをいつも思い出す。あの頃のなんとも言えない気持ちがじんわりとよみがえり少し泣きそうになる。他の家の子どもはこんな気持ちになることがあるのだろうか。 「これ、メニューに入れた方が絶対に良いよ」  もっともらしい声かけをしながら、目の前の包みたてをひとついただく。口いっぱいに溢れるジューシーな幸福に思わず目を細め、鼻から抜ける甘い充足感に思わず上を向く。なんて美味しいのだろう。これが店に並ばないのは実に不自然だ。もぐもぐと口を動かしていると、いつもの台詞が返ってきた。 「メニューには入れないよ。うちは鮨屋だからね」  祖父いわく、稲荷寿司は魚を使わないので〝寿司〟であり〝鮨〟ではないという。そんなの屁理屈じゃないの、ともうひとつ口に運ぶ。確かにこの店にはかっぱ巻きもかんぴょう巻きも無い。玉子はどうなのか問うと、うちのには魚のすり身が入ってるんだ、と得意げに言う。祖母も以前、昔ながらの江戸前は玉子をこうするのだと言っていた。こんな小さな鮨屋でも長く続けていられるのは、こうしたこだわりやプライドがあるからなのかもしれない。  私は、そんな祖父母が報われるような瞬間が好きだ。有り難いことにこの鮨屋は昼夜を問わず日々賑わっている。その景色から私はいつも、何ものにも代えがたい安心を得ていた。小さな町の小さな鮨屋に来るのは基本的にこのあたりに暮らす人だ。私にとっては幼い頃からの顔見知りも多く、彼らは私を見る度にいつもしみじみとし、そこから各々の昔話に花が咲くことも多い。  この店は、こんな辺鄙なところにあるのに店名の頭に〝日本橋〟と付いている。その香り立つような三文字がお墨付きを感じさせるのか、たまに来る一見さんも上品な人が多く口コミサイトでの評判も良い。働き者の老夫婦との三人暮らしは寂しいことも多い。が、私はこの店のおかげで二人が生き生きとしているのが何よりも嬉しい。  だからこそ昨夜のことは論外である。  営業時間を過ぎても店の酒を呑みつくす勢いで鎮座しているのは、いつだってあの男くらいだ。不思議とあの男を外で見かけたことは一度もなく、どこの誰なのか詳しいことは分からない。だから私にとっては、いつの間にかそこに現れる妖怪のような存在だ。もしくは、我が家から週末の安息を奪い盗る凶賊の部類だと思っている。  それに、あのお客の相手をした翌日の祖父は心なしか小さく見える。立入禁止にしてしまえば良いとも思う。しかしここは小さな地域。一人の客に対してそのような対応をすることは容易ではなさそうだ。  あの男の定位置に目をやる。  自然と、またあのメロディーが脳内で再生される。捨て子のス。みなしごのミ。 「スー、風呂入っておいで」  端の席をぼんやりと見つめる私に祖父が声をかけた。そうだった、私ぐしゃぐしゃのままでここに来たんだった。自分の酷い顔面を思い出して急に恥ずかしくなり、やや顔を伏せて二階へ向かった。  昨晩の出来事を表すような、ぐしゃぐしゃによれて歪んだシャツを脱ぎ捨てる。あくびをしながら下着をおろす。 蛇口をひねり鏡を覗き込むと、今日は誰にも会えないであろうむくみきった私が映る。夜の刃に耐えたひとりぼっちの身体があたたかい湯にほぐれていく。もこもこと増えていく泡を前後左右に動かしながら、また無意識に考えごとが始まる。じいちゃん、朝から稲荷寿司を作ってたな。今日は何かあるのかな。イベントがあるなんてこと、言ってたっけ……。  浴室から出ると、祖母も既に起きているようだった。一階から話し声が聞こえる。髪を乾かしながらまたひとり、自分と目を合わせる。そこに映る無表情を無遠慮に眺める。二重の線が消えるほどに腫れていた瞼は少しずつ元に近付いているようだ。  顔のむくみを気にするたびに、その原因となったものが自然とよぎる。あの数分の出来事は私に大きな穴を開けた。それは間違いない。あの時に聞こえたことは全て本当なのだろうか……。  しかし、いくら悩んでも答えが分かることはない。それに私から祖父母に真偽を聞くことは今もこれからもきっとない。そんな気がする。だってそれは自分にも祖父母にも良くないことだとわかるから。輪をかけて傷つくだろうし、傷つけてしまうに違いない。そんなの何も好転しない。それなら、聞くだけ無駄だ。  乾いていく髪を撫でながら考える。  私の人生はあの二人とのものである。今からそれが覆ることなどない。二人を頼りに生きている今のこの生活、これこそが私が流れ着いたたった一つの解だ。できる限り長く共にいたい。それ以上のことは望まない。  だから私が取るべき行動は、知らない事実を知ることではなく、私を守る目の前の事実を守ろうとすることにある。  本当のことがいつも正しいとは限らない。   本当のことは、本当のことの後にあっても、別に良いのだ。  すりガラス越しに昼の光が優しく入る。この明るさで眺めると、この古い洗面台も味があって良い。気付けば気分が上向きだ。周りの光景が嬉しく見えてくる。お風呂上がりというのは、内側のいやなものまで流してくれる感じがするから不思議だ。物理的に身体が綺麗になるだけではない。入る前と比べ、心もつられてすっきりする。  部屋に戻り最低限の身支度をする。図らずとも早起きができてしまった今日は、存分に休憩に使うことを自分にゆるしたい。昨晩の漂流で私を乗せた煎餅布団は、いやなものを吸ったようにすっかりくたびれて見える。シーツやカバーを剥ぎ取り、洗濯機に突っ込む。その音に気が付いたのか祖母が二階に上がってきた。 「スミ、おはよう」 「おはよう、ばあちゃん」 「スミ、今日は三人で散歩でもしよう」  え、とすぐに聞き返したが、にこにこしたまま自室に入ってしまった。開いたままの扉から覗くと、祖母は出かけるために身支度をしている様子だった。白髪を結った低めのおだんご、垂れた目尻、薄い紫色が覗く割烹着、深い皺があるのにみずみずしい。どうしておばあさんという存在はこんなにもやさしい空気を作れるのだろう。 下行ってみな、おじいさんの手伝いがあるよ、とこちらを見ずに声を投げる。横顔しか見えなくても、その表情はやはりやさしい。  言葉のままに下へ行くと、祖父は古そうな木箱を厨房に並べている最中だった。何これ、と不思議そうに見つめて一つ渡してくれた。 「これはな、〝決箱〟っていうんだ。決める箱と書いて、キメバコ。この店で代々受け継いでいるもので、昔はこの中にネタを入れてたんだよ。いわゆるネタケースだな。そこに〝魚河岸〟って書いてあるだろう? それは日本橋が魚河岸だった時代から受け継がれている証拠だよ」 「魚河岸って魚市場のことだよね」 「そう。日本橋って、今から百年前までは、三百年も続く魚河岸だったんだよ。関東大震災で壊滅して築地に移転するまではね、あのあたり一帯は江戸で一番活気のある場所だったんだ」 「へぇ、すごい」  その箱を隅々まで眺めてみる。とても百年前のものとは思えない。祖父を見ると、その代々受け継がれてきた宝物に惑うことなく稲荷寿司を詰めている。そんなに普通に使って良いものなのか。少し不安になる。 「今日は三人で日本橋のあたりに行ってみるかぁ」 「え、三人で? 店はどうするの」 「今日は休むと決めたんだ。三人で散歩でもしよう」 「え… でも」 「ほら行こう。ばあさん呼んできな」  しっかりと戸締りをして、目の前の商店街から駅へと向かう。三人並んで歩く町はまだ目を覚ましたばかりで、開いていない店のほうが多く見える。おはようございます、お出掛けですか、通りにいる人と祖父母が言葉を交わす。すれ違う人という人がもれなく笑いかけて会釈する。この夫妻は町中から愛されている。  二人の間に挟まれて歩くのはいつぶりだろうか。どんな顔をして歩いたら良いのだろう。どうも妙なくすぐったさがある。祖父が店を休むなんて。この二人が店を空けるなんて。しかもそれで、三人で散歩するなんて。一体どうなっているのだろう。誰もいない家に少し不安が残り、私は来た道を何度か振り返った。  電車に乗り込むと、部活の朝練に向かうのだろうか、楽しそうに語らう学生たちが席を埋めていた。祖父母は扉付近で路線図を見上げていたが、その姿を見つけるや否や、若者たちは勢いよく立ち上がり席を譲ってくれた。親切な彼らと同世代であろう私はそのまま扉のあたりに残り、祖父母に目配せをした。  並んで座る二人の後ろを街並みが流れていく。いくつかの駅を飛ばしながら快く進み、さほど混み合うこともなく軽やかに、朝の空気を切っていく。祖父母は何やら話して笑いあっている。まもなく目的地だよ、と合図を送ると祖父が祖母の手を取った。  扉が開く。日本橋。初めて降り立つ場所だ。

鮨屋の娘 - 前編 - epi.05

赤澤 える

鮨屋の娘 - 前編 -

LEBECCA boutique(レベッカブティック)ブランド総合ディレクター。ファッション分野のクリエイティブディレクション業を中心に活動。サステイナブルファッションやエシカルコンシューマリズムへ強い関心を寄せており、自身の体験や解釈をベースに発信を行う。

※物語のつづきは、十二月中旬以降、文庫本にてお愉しみいただけます。「GROWND -nihonbashi-」のオープン後に、1階のホットサンド専門店「mm ミリ」店内にて展示(予定)、また、クラウドファンディングのリターンとしてお届けいたします。

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