GROWND

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白と黒のあいだで あかしゆか

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epi.02

白と黒のあいだで あかしゆか

 質素な、美しい男性であった。  まだ夏の暑さがじんわりと残る、九月半ばのことだった。大きな取引先との商談を無事に終え、「その労いに」と寿司屋で上司とささやかな乾杯をしていた時、ガラリと扉を開けて入ってきたその男性の佇まいに、私は心を奪われたのである。  年齢は三十代後半くらいだろうか。ポイントは「質素」というところにあった。美しさを、高級品でごまかしていない人だった。服や時計などは、どこのものかもわからないくたびれたものを身に纏っていたけれど、そんなことはまったく気にならなかった。むしろ、そのくたびれたものたちには意志や愛情が宿っているような気さえした。  そして、真っ直ぐとした背筋、何にも動じないような強く深い瞳、ほどよく引き締まった体、その男性が持つすべてから、目を離すことができなかったのだ。  男性は大将に会釈をして、私の左隣のカウンター席に通され、腰掛けた。渡された熱いおしぼりで軽く顔を拭き、「生ビールを」と注文して、喉をクックと鳴らしながらグラスの半分ほどを一気に飲み干す。そして黒板に書いてあるメニューを吟味しながら、少しずつ、本当に少しずつ、寿司を注文するのだった。 *  「食い逃げですね」  耳を疑うような言葉が板前の口から出てきたのは、それから一時間ほど後のことだった。  その頃には私も上司も、ビール、焼酎、日本酒と、酒が進んでいたためだいぶ上機嫌になっていたが、まさか日本橋にある老舗の寿司屋でそんな言葉を聞くとは思いもせず、思わず素面に戻り、顔を見合わせた。  そしてどうやらその「食い逃げ」の犯人は、私の左隣に座っていた、あの、美しい佇まいの男性であるらしかった。食事中、電話がかかってきたと言って外に出て、そのままもう三十分以上戻ってこないのだという。もちろん鞄はなかった。  「どうしますか、大将。警察ですか」  見習いであろう板前のひとりが、顔をしかませて大将に問いかける。大将は、同心円が特徴の、蛇のようなまんまるな目をしている五十歳くらいの男性だった。彼は、腕を組み、首を傾け、丸い目を細めながら、しばしの沈黙を挟んで一言、こう言った。  「いや、今回は、いい。仕事に戻るぞ」 *  食い逃げ騒動で一時お店は騒然としたものの、すぐに場の雰囲気は元に戻り、結局その日、私と上司は、閉店の時間まで飲んでいた。昼間の商談のこと、これからの私のキャリアのこと、そして私の恋愛や上司の家庭事情などのプライベートな話まで、話題には事欠かなかった。  はじめて食べる江戸前寿司の美味しさも、会話の楽しさに拍車をかけた。石川県で生まれ育ち、地魚を使った寿司に慣れていた私は、酢〆や醤油漬けなどで味付けされている「江戸前寿司」を食べるのははじめてだった。  昔はこのあたりまで海が続いていて、そこで採れた新鮮な魚のおかげで江戸で寿司文化が発達したこと、冷蔵技術がなかった当時、その獲れた魚を少しでも長く保存するためにさまざまな味付けが開発されたこと。上司は、そういった食の歴史についても教えてくれた。話すといつも知らない世界を覗かせてくれる上司のことが、私はとても好きである。  たらふく寿司を食べ、酒を飲んだあと、上司と共に店を出た。すると大将が見送りに玄関まで出てきてくれる。  「ありがとうございます。途中、お騒がせしちゃってすみませんねえ」  かぶっていた和帽子を外し、頭を下げながらそう言う大将に対し、「いえいえ、大変でしたね」と上司が返す。黙っていればよかったのだが、私はどうしても気になって、思わず聞いてしまった。  「……あの、どうして。どうして先ほど、食い逃げを許したんですか?」  上司がこちらを見ているのがわかる。けれど私は、なぜかどうしても、気になったのだ。きっと食い逃げをしたのがあの美しい男性だったから、ということも、大きな理由としてあるのだと思う。  そうですねえ、と、大将は少し考えながらこう言った。  「飲食店を営んでいる者として、食い逃げは、どんな相手でも許すべきことじゃないって分かっちゃいるんですよ。僕たちもそれで食っているんでねえ。でも、でもですよ。善悪って、ひとつの現象だけで一概に決められることではないでしょう? そういうのが、この歳になって、わかるような気がしてね……」  「それにね。あの人、最初のビールを飲みながら、とても綺麗な涙を流していたんですよ」 *  これはもう、今から十五年以上も前の話である。  カウンターにひとりでご飯を食べている人を見かけると、私は今も、あの時寿司屋で隣に座っていた男性のことを思い出す。そして、蛇の目の大将が言った言葉が頭にこだまする。  善悪って、ひとつの現象だけで一概に決められることではないでしょう?  あれから私も歳を重ね、結婚をして、子どもを産んで、少なからず人としての経験を積んできた。そしてその分、社会や人間の汚い部分を見ることも増えていった。  裏切りや法律違反すれすれの出来事が、人間社会ではしばしば起きる。そういうことに出くわすたびに、落ち込み、怒ってしまいそうになるけれど、出来事には、必ず何かしらの背景が存在している。大将の言うとおり、善悪は一概に決められることではない。  あの時に行った寿司屋は、あれ以来足を運んでいない。先日ふとネットで検索してみたら、近くのビルに移転をしたのだという。  もちろんあの美しい男性にも、あれ以来一度も会っていない。彼は今、生ビールを美味しく飲めているのだろうか。  いつかまた、もしも出会えたその時には、涙の訳を、聞いてみたいなと思う。

白と黒のあいだで epi.02

あかしゆか

白と黒のあいだで

一九九二年生まれ、京都出身、東京在住。 大学時代に本屋で働いた経験から、文章に関わる仕事がしたいと編集者をめざすように。現在はウェブや紙など媒体を問わず、編集者・ライターとして活動している。

※物語のつづきは、12月中旬以降、文庫本にてお愉しみいただけます。「GROWND -nihonbashi-」のオープン後に、1階のホットサンド専門店「mm ミリ」店内にて展示(予定)、また、クラウドファンディングのリターンとしてお届けいたします。

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